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第79話 笑う冴子

last update Date de publication: 2026-07-08 18:08:25

 株主総会の会場で、朔弥さんはそこで資料を一枚めくった。

「業績面でも確認します。相談役主導の新規投資案件は、直近の報告で赤字が続いています。一方、高瀬が実務を担った御門ブライダル再建案件は黒字化し、外部資金からも継続評価を受けています」

 会場の空気が、また変わった。

 写真でも、噂でも、体調でもない。

 数字だった。

 御門の名前を守ると言いながら、実際に会社の価値を削っているのは誰なのか。

 その問いが、議場の床へ静かに広がっていく。

 冴子は、しばらく朔弥さんを見ていた。

 母親の顔ではなかった。

 自分の思い通りに動かない後継者を、初めて公の場で見る人の顔だった。

「会社は、それだけではございませんの」

 冴子は、ゆっくりと言った。

「黒字であれば何をしてもよい。外から評価されたなら、御門の信用を傷つけてもよい。そういう話ではないでしょう」

 朔弥さんは、そんなことを言っていない。

 けれど冴子は、数字そのものには触れなかった。

 代わりに、事実を別の言葉にすり替える。

 黒字を、わがままに。

 評価を、慢心に。

 私の仕事を、御門の信用
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    「……出入りを禁止しろと?」 「はい。社員へ直接連絡することも、一族会議の名前を使うことも、全部です」  電話の向こうで、朔弥さんが黙った。  遠くで鳴る電話と、社員たちの声だけが聞こえる。  母親を切れと言っている。簡単に答えられる話ではない。  それでも、ここで引き下がることはできなかった。  私は声を落とした。 「……できないなら、私が御門を出ます。今度こそ、子どもも連れて」  電話の向こうで、朔弥さんが長く息を吐いた。 「わかった。本社にも関連施設にも入れない。社員にも直接連絡させない」  電話の向こうで、また朔弥さんを呼ぶ声がした。 「声明も止める。戻ったら、続きを話す」  今度こそ、朔弥さんは私に我慢しろと言わなかった。 ***  朔弥さんとの通話が切れてから、三時間が過ぎた。  窓の外は暗くなっていた。御門ホールディングスから訂正の声明は出たが、最初の声明を写した画像は、もう消せないほど広がっている。  夕食には、ほとんど手をつけられなかった。  ベッド脇で、スマートフォンが鳴った。  表示された名前は、御門冴子。  心臓が速く打ち始めた。  怒りは消えていない。それなのに、すぐには画面へ手を伸ばせなかった。  着信音が病室に響き続ける。  一度、着信が切れた。  すぐに、また鳴り始める。  出ないほうがいい。そう思ったのに、通話ボタンを押した。 「声明を訂正させたそうね」  挨拶もなく、冴子は言った。 「私が辞めると申し上げたことはありません」 「真尋さん、いつまで自分の勝手が通ると思っているの。あなたは御門の嫁にふさわしくないのよ」 「ふさわしくないって、どういうことですか」 「そのままの意味よ。御門のために我慢することもできず、朔弥に母親を追い出させる。そんな人を、御門の嫁とは認められないわ」 「勝手に私の退任を発表したのは、お義母様です」 「私は御門のために必要なことをしたのよ」  頭の中で、ぶちりと音がした。  何が、御門のためだ。  その一言で、私は何度黙らされてきたのだろう。  もう我慢しない。 この人が守ると言いながら何を壊したのか、全部言ってやる。  スマートフォンを握り直した。  今度は、声が大きくなっても構わなかった。

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     すぐには答えられなかった。  悪いところなら、いくらでも浮かぶ。  何も説明せずに離婚を告げた。一条さんを私の下につけ、問題を起こすたびに私を責めた。城戸さんとの関係を疑い、妊娠がわかると、今度は榊原さんへ私の仕事を渡そうとした。  守るためと言いながら、私の仕事も、家も、結婚まで取り上げようとした。 「妊娠がわかった後、榊原さんへ私の仕事を渡す案を認めたのも、あなたです」 「ああ。負担を減らすつもりだった。榊原が澄麗の依頼で君の席を狙っていたとは知らなかった」 「知らなくても、仕事を渡したのはあなたです」 「そうだ」  言い訳をしないところは、いいところに数えてもいいのだろうか。  だけど、同じくらい、大好きだと思うところもある。  社長室で抱き合ったこと。二人で並んで戦った株主総会。不妊治療で何度も傷ついて、それでも二人でここまで来た。  私が眠れない夜は、眠ったふりをしても気づく。私が大丈夫だと言っても、無理をしていればすぐにわかる。  それに、赤ちゃんの心拍を初めて聞いた時の、あの顔。  泣いていないと言い張りながら、私の肩へ顔を伏せた。  さっきも、一条家を敵に回して、私と子どもを家族だと言った。  つらかったことと、幸せだったことを、もうきれいに切り分けられなくなっていた。  ひどい人だ。今もあのときのことを思い出すと腹が立つ。  それでも、やっぱり好きだった。  許さないまま、この人から離れたいわけではない。  でも、ここで許すと言ったら、私が傷ついた時間まで簡単に終わってしまう気がした。  どうするべきなんだろうか。  朔弥さんに手を握られた。  何も言わず、私をじっと見つめている。  急かされてはいない。それでも、何か答えなければと思った。 「私は――」  激しいノックと同時に、病室の扉が開いた。 「社長、失礼します」  秘書室の若い社員が、息を切らして立っていた。手にしたタブレットを胸の前で抱えている。 「社長、記事が出ました」 「何の記事だ」 「奥様と城戸社長が不倫関係にあり、お腹の子も城戸社長の子ではないかと」 「違います」  思わず、朔弥さんを見た。  以前、城戸さんとの関係を疑われたことを思い出した。 「……わかってる。疑ってない」 「はい」  握られた手に力がこ

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    「そうだ」  驚きはなかった。 『手放したくない。守りたい』  以前、朔弥さんはそこまで言った。でも、離婚を切り出した朝に、なぜ一条さんの入社まで告げたのかは、ずっと気になっていたのに、聞けないままだった。 『離婚しよう』 『仕事の体制も変える。一条澄麗を入れる』  あの言葉を思い出すだけで、今も指先が冷たくなる。 「なぜ、この二つを一緒に言ったんですか」 「澄麗との縁談を断った翌日、一条側から融資を見直すと連絡が来た。母からは、君の父親の事務所にも影響が出ると言われた」 「だから私と離婚しようとした」 「ああ。君を御門から外し、一条とは俺一人で話をつけるつもりだった」  勝手すぎて、すぐには言葉が出なかった。 「……では、一条さんを会社へ入れたのは」 「縁談を断る代わりに、一条側から求められた。社内へ入れれば、両家の関係は続いていると示せる」 「それで、私の下につけたんですか」 「それは俺が決めた」  朔弥さんの両手が、ひざの上で組まれた。 「君の下なら、澄麗も勝手なことはできないと思った。間違ったことをしても、君なら止められると」 「私を守るために、私の仕事場へ一条さんを入れたんですね」 「……そうだ」  ずいぶん便利に信頼されたものだ。 「嫌なら俺のそばに置く、とも言いました」 「業務上の配置の話だった」 「離婚を告げた直後に、次の花嫁候補を俺のそばへ置くと言われて、私はどう受け取ればよかったんですか」  朔弥さんは答えなかった。 「一条さんが資料を勝手に変えた時も、あなたは最初に私を責めました」 「あの時は、母から、君が澄麗を大勢の前で責めて泣かせたと聞いた」 「確認もしないで信じたんですか」 「一条家を怒らせたくなかった。それに、君なら仕事を立て直せると甘えた」  ようやく、きれいではない答えが出た。 「私なら傷つけても、翌朝には資料を直していると思ったんですね」 「ああ」 「最低です」 「わかってる」 「城戸さんとの会議を一条さんに奪われた時も、最初に責任を問われたのは私でした」 「その場で、澄麗を切れば一条が動くと考えた。だが、あれは俺の判断が遅かった」 「案件から外した後も、一条さんを慰めていました」 「泣いたまま一条家へ帰せば、また話を大きくされると思った」 「そして私は

  • 子どもはまだかと責められ、夫には離婚を告げられましたので、都合のいい妻は卒業します   第123話 お義母様と呼ばないで

    「こちらがその気になれば、御門などいつでも潰せる」  最初に声を上げたのは、冴子だった。 「雅臣さん、それは話が違うでしょう。今日は両家に傷がつかないよう、話を収めに来たのではないの」 「話が違うのはこちらだ!」  雅臣が冴子をにらんだ。 「あなたが真尋さんを離婚させ、澄麗を朔弥さんの妻にすると言ったから、こちらは御門を支えてきたんだぞ」  病室に、白い花の匂いが残っている。  誰も私には言わなかった約束が、当然のように口にされた。 「約束ではありません。お互いの家にとって望ましいとお話ししただけです」 「その話を信じたから、澄麗は待っていたんだ!」 「待てとは言っていません。まして、階段から押しなさいなんて、誰が言うのです」  澄麗が、落とした花を拾おうとした姿勢で止まった。 「……お義母様?」 「そう呼ぶのはやめてちょうだい」  冴子の返事は早かった。  澄麗の顔から、今度こそ作っていた表情が消えた。 「お義母様が言ったのよ。わたくしこそ朔弥さんにふさわしいって。真尋さんは子どももできないし、家格も釣り合わないから、すぐに離婚するって!」 「私は、あなたが人を殺そうとするほど見境のない娘だとは思わなかったのよ」 「澄麗をその気にさせたのはあなただろう!」  雅臣が、床に散った白い花を靴で踏んだ。 「孫ができたとわかった途端、うちの娘を切るつもりか」 「この子は御門の後継です。澄麗さんのために失うわけにはいきません」  冴子の視線が、私ではなく、お腹に下がった。  嫁を交換する話から、今度は子どもの取り分の話へ変わった。 「二人とも、もう黙れ」  朔弥さんが、私のベッドと彼らの間に立った。 「離婚も、再婚も、あなたたちが決めることではない」 「できるものなら、やってみろ」  冴子が顔を上げた。 「朔弥、何を言っているの」 「母さんは、一条家を病室に入れた。真尋に事故だと書かせるために」 「私は両家を守ろうとしたのよ」 「真尋は、まだ自分でトイレにも行けない」  朔弥さんが振り返った。 「そんな真尋の前に、押した人間と金を並べた。それが母さんの守り方か」  雅臣が、朔弥さんの言葉を遮った。 「会社だけで済むと思うな」  彼の視線が、私と城戸さんの間を往復する。 「社長夫人と提携先の男性との

  • 子どもはまだかと責められ、夫には離婚を告げられましたので、都合のいい妻は卒業します   第122話 こちらがその気になれば、御門などいつでも潰せる

     私たちの反応など、最初から聞く気はないらしい。  朔弥さんが口を開く前に、弁護士は用意してきた説明を続けた。 「その点を双方で確認し、今後は口外しないという合意書です。治療費と休業中の補償は、一条側で全額負担いたします」  弁護士が、書類とペンを私の前へ滑らせた。  謝りに来たのではない。「事故でした」と、私自身に書かせるために来たのだ。  金額の欄には、見たことのない桁が並んでいた。  数字を見た瞬間、階段で背中を打った痛みが戻った。お腹を押さえ、この子だけはと願った時間まで、この金額で買えると思っている。  私の仕事を奪った時と同じだ。  この人たちは、お金を払えば、起きたことまで自分たちに都合よく変えられると思っている。 「私とこの子が死にかけたことに、値段をつけるんですか」  澄麗の父は私のお腹を見た。 「お子様の心拍は確認できたと伺っています。であれば、両家が傷つく形にする必要はないでしょう」 「傷ついたのは家ではありません」  声が掠れた。  それでも、澄麗の父から目をそらさなかった。 「私です。私の子です」  隣で、椅子が大きな音を立てて倒れた。  朔弥さんが立ち上がっていた。  合意書をつかみ、真ん中から破る。二枚、四枚、それでも足りないように、もう一度引き裂いた。 「心拍があれば、押してもなかったことにできるのか」 「御門社長。感情的にならずに――」 「俺の妻と子どもを殺しかけた人間が、この病室にいるんだぞ!」  朔弥さんの怒鳴り声を、初めて聞いた。  澄麗が抱えていた花束を取り落とす。白い花が床に散った。 「全員、出ていけ」 「朔弥さん、わたくしはあなたのために」 「俺の名前を呼ぶな」  澄麗の唇が開いたまま止まった。  澄麗の父の顔からも、余裕が消える。 「娘に向かって、なんという口のきき方だ」 「真尋を階段から突き落とした人間です」 「澄麗はそんな娘ではない!」  澄麗の父が、破れた合意書を朔弥さんの足元へ投げた。 「非常ベルの中で混乱しただけだ。そもそも、娘をあそこまで追い詰めたのはあなたでしょう」 「俺が?」 「澄麗は幼い頃から、あなたの妻になると信じて生きてきた。それを突然、別の女と結婚して恥をかかせた。娘がどれほど傷ついたと思っている!」  押された私より、押

  • 子どもはまだかと責められ、夫には離婚を告げられましたので、都合のいい妻は卒業します   第4話 もう、都合のいい妻ではいられない

    「真尋。今はやめろ」  掴まれた手首が痛い。  腹の奥が焼けて、呼吸が乱れた。  叫びたかった。この場で全部、ぶちまけたかった。  彼の顔を見た。  そこにあったのは、私への心配ではなく、場を乱された苛立ちだった。  胸の奥を、鈍いものが刺した。  そのとき、澄麗の声が届いた。 「ごめんなさい。私、何か失礼でしたか?」  澄麗は困ったように目を伏せる。  完璧だった。責めたほうが浅く見える形に、もう整っていた。 「……いいえ。お気遣い、ありがとうございます」  噛みしめた唇が切れ、舌の裏に鉄の味がした。  朔弥さんの手が離れる。  そこだけが、熱を持って痛んだ。

  • 子どもはまだかと責められ、夫には離婚を告げられましたので、都合のいい妻は卒業します   第3話 それ以上、口を開いたら

     昔、午前二時の会議室で、朔弥さんが紙コップのコーヒーを私の手元に置いたことがある。  御門ホールディングスを再建させようと二人で必死だったころ。  私の一番好きなオートミルクラテだった。 「まだやるのか」 「数字が嘘をついているので」  彼は私の肩越しに資料を覗き込み、すぐ近くで小さく息をついた。 「そういうところだ。せめて休むときは休め」  低い声が近すぎて、あのころの私はそれだけで少し浮き足立った。  彼が私を気にかけてくれているのだと、本気で思った。  再建の底で、ああいうくだらないやりとりができる夜だけは、私たちはたぶん同じ側にいた。  なのに今は

  • 子どもはまだかと責められ、夫には離婚を告げられましたので、都合のいい妻は卒業します   第2話 離婚の朝、知らない香りがした

     朔也さんは一晩中帰ってこなかった。  私が送ったメッセージも、既読のまま返事はなかった。  翌日、会社の空気は昨日より少しだけ悪かった。  数字が悪いわけでも、会議が荒れているわけでもない。ただ、人の視線だけが妙に湿っている。そういう日の会社は面倒だ。問題が表に出る前に、誰かが勝手に物語を作っている。  エレベーターを降りた瞬間、すれ違った総務の二人が、私を見るでもなく声を落とした。 「やっぱり、社長とは昔からそういう感じだったんだ」 「二人、本当にお似合いだよね」 「でも今さら入るんだ。しかもブランド戦略って」  一条澄麗。  帰国した、若くて、家柄もよくて、米国の名門

  • 子どもはまだかと責められ、夫には離婚を告げられましたので、都合のいい妻は卒業します   第1話 子どもの名前は、もう決められていた

     ――子どもは、まだなの。  御門家の朝食卓で、その問いは天気の話みたいな顔で落ちてきた。  問いというより、確認だ。いつまで待たせるつもりなのか、と。銀のスプーンが白い皿に触れる小さな音のほうが、よほどやさしい。 「仕事が忙しいのはわかるけれど、女には期限がありますからね」  義母の冴子は穏やかに微笑んだ。  露骨に責める人より、こういう人のほうが厄介だ。やさしい声のまま、逃げ場のないところだけを刺してくる。  隣では、義祖母の千鶴が新聞を畳み、こちらも見ずに口を開いた。 「会社を支えたことは評価しているわ。でもね、真尋さん。妻の仕事は、それだけじゃないの」  喉の奥が細くな

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